青木菊麿
本学会の変遷を辿ると三十数年前に遡る.当時、適正な遺伝相談(genetic counselingを日本語訳にしたもの)を地域住民に提供するために、日本人類遺伝学会に”遺伝相談ネットワーク委員会”が設けられた(1972年).その委員会の調査により、適切な医師の遺伝相談カウンセラーが存在しないことが明白となり、医師カウンセラーの養成の必要性やその方法の検討が開始された.
1974年度から厚生省心身障害研究によって、“遺伝相談カウンセラーの教育と研修に関する研究(大倉興司、東京医科歯科大学)”、及び遺伝相談資料の整備に関する研究(半田順俊、和歌山県立医科大学)”が開始され、特に遺伝相談カウンセラーとしての教育と研修を具体的に行うことによって、その方法を開発してゆくことになった.初年度の研修会は1974年夏に東京で開催され、24名の医師が参加した.1976年に行われた遺伝相談カウンセラー研修の参加者親睦会において、日頃の研究成果や経験を話し合える会を持ちたいという意見があった.1977年11月、日本人類遺伝学会学術集会に引き続き第1回研究会が山口大学医学部において開催され、47名が参加して臨床遺伝研究会として発足した.第2回研究会は東京で開催され、107名が参加した.その場で研究会の機関誌の刊行が決定され、第1巻1号は1979年に「臨床遺伝研究」として発刊されている.
厚生労働省(当時厚生省)は遺伝相談を発展普及させるため、これらの研究の成果を受けて、1977年に家族計画特別相談事業を開始し、社団法人日本家族計画協会に遺伝相談センターが設置された.同センターは、(1)医師の遺伝カウンセラー養成、(2)保健婦助産婦など保健医療従事者に対する遺伝相談の啓発、教育、(3)遺伝相談のためのモデルクリニックの開設と遺伝相談サービス、(4)遺伝相談に関する内外の科学的資料及び情報の収集と提供、(5)全国的遺伝相談ネットワークの編成、運営の支援、(6)その他遺伝相談普及のための諸事業、を実施することにした.
日本人類遺伝学会の中に設置された遺伝相談ネットワーク委員会は、この頃から日本人類遺伝学会を離れて、日本家族計画協会遺伝相談センターを中心に活動を始めるようになり、臨床遺伝研究会は1986年には日本臨床遺伝学会に変更された.研究会の責任者は当初は大倉らを中心とした幹事であり、1983年から半田が研究会の初代会長に選出され、学会に変更された1986年以後は大倉が学会長となった.1995年から青木菊麿(女子栄養大学)が引き継ぎ、2001年から古山順一(兵庫医科大学)が会則変更に伴って理事長に選出されて、現在に至っている.その間に学会名は後述のように2001年から日本遺伝カウンセリング学会に変更されている.学会の開催歴は学会誌24巻1号、61頁に記載されているが、2004年5月には第28回学術集会が京都で藤田潤(京都大学)により開催されている.
このようにして日本臨床遺伝学会(現、日本遺伝カウンセリング学会)と日本家族計画協会遺伝相談センターが中心となって、現在に至るまで医師の遺伝相談カウンセラー養成のためのセミナーは2004年度で第32回を経過し、養成された医師カウンセラーは千名を超えている.セミナーの内容は遺伝学の最先端の知識のみではなく、当初から遺伝カウンセリングの在り方、方法論などの内容が盛り込まれていたのが特徴的であり、ロールプレーも取り入れられていた.セミナーは主に大倉、半田、松田健史(金沢大学医学部、後富山医科薬科大学医学部)が中心となり、特に大倉の遺伝相談に対する情熱はセミナーを通じて多くの受講者に伝えられている.1998年からセミナーは月野隆一(有田市立病院)を中心に研修委員会により継続されている.1995年からセミナー修了者を対象に遺伝相談認定医師カウンセラー制度を発足させ、また同時に指導医の認定制度も実施しており、引き続き現在の制度に移行している.
一方、1977年当時から助産婦(師)、看護婦(師)を中心としたコメディカルスタッフのための遺伝相談セミナーを開始し、現在まで継続されている.遺伝相談は当該領域分野の希少性並びに高度の専門性が特徴であり、カバーすべき範囲が広いことから、医師のみではなくコメディカルスタッフにまで遺伝に対する知識を持って貰い、協力して遺伝相談を広げていくという考えを大倉は強固に押し通してきた.当時看護職の有志による地域遺伝相談研究会が大倉を中心に活動しており、例年の学会に引き続き研究会を開催してきたが、1990年頃に中止されている.1995年学会開催時の評議員会でこの問題が取り上げられ、学会にコメディカルスタッフが一般会員として積極的に参加して学会発表をして貰うという提案があり、そのための入会条件などが議論されている.倫理委員会の設立もこの頃から検討されるようになった.学会員は発足当時の47名から急速に増加し、その後は400名前後を維持してきた
一方、日本人類遺伝学会の中に遺伝医学セミナー実行委員会が発足し、1991年から遺伝医学セミナーを開催してきた.同時に人類遺伝学会臨床遺伝学認定医制度を発足させており、全国各地で交替にセミナーを開催しているが、1999年からセミナーカリキュラムの中にSmall Group Meetingの形で遺伝カウンセリング・ロールプレイが取り入れられており、当時の臨床遺伝学会から数名が講師として参加している.
このように、次第にわが国でも遺伝相談あるいは遺伝カウンセリングの必要性が認識されるようになり、遺伝医学関連の発展普及が求められるようになってきた.厚生省も遺伝医療の重要性を認識して医療行政への反映を検討するようになり、当時2つの学会が独自に認定医制度やセミナーを実施していたことを考慮し、遺伝医療制度再構築の必要性を検討するようになった.1996年に大倉に対して厚生省母子保健課長から1998年をめどに全国的な遺伝相談サービスの確立、組織化を図りたいので計画するようにとの話があり、日本臨床遺伝学会として討議することとなった.1997年に厚生省心身障害研究の1つに「遺伝相談に関する研究班」が発足し、主任研究者として大倉が指名され、分担研究者には臨床遺伝学会のメンバーが参加した.しかし、1997年5月頃から大倉は体調を崩し、同年10月6日に逝去.その後同月に厚生省からこの研究班を継続してほしい旨の依頼があり、故大倉の後任の主任研究者として青木が推薦された.厚生労働省からは、遺伝相談を全国レベルで実施したいが、状況が把握されておらず、日本臨床遺伝学会での過去20年のデータがあるので、それをまとめてほしい旨依頼があった.その他、全国あるいは地域のネットワーク作り、遺伝相談に対する健康保険料請求の問題、全国での遺伝相談のニーズの把握、年間の相談件数、遺伝相談に対する1施設でのランニングコスト、遺伝相談システムを医療体系に組み込む方法、カウンセラー養成の問題、他学会との調整、などの要求があった.日本人類遺伝学会からもこの研究班への参加の希望が強かったが、最終的にはこの研究班は臨床遺伝学会のみに偏った構成となった.
この研究班の発足を契機に、遺伝医学の専門性と共に遺伝カウンセラーの重要性が急速に高まってきた.日本臨床遺伝学会は早くからこの時期の到来を予測し、遺伝相談医師カウンセラーと共にこれを支えるコメディカルスタッフの研修・養成を続けてきた経緯がある.前述の如く、学会としてもコメディカルの参加を積極的に支持してきた.
この研究班を契機に、遺伝相談や遺伝医療システムに関する2つの学会の制度の歩み寄りが検討されるようになり、1998年度(平成10年)に新たな厚生科学研究(子ども家庭総合研究事業)が主任研究者古山により組織された.「遺伝医療システムの構築と運用に関する研究」という課題で、初めて卓を囲んで両学会が遺伝医療制度の歩み寄りについて検討を開始した.しかしあらためて両学会が並列の形になると、臨床遺伝学会は日本人類遺伝学会と比較して規模も小さく、また学会とはいってもこれまでは大倉を中心とした同好の士の集まりといったサロン的風潮が多少はあったことは否めなかった.研究班の会議の終了後、臨床遺伝学会の幹事や評議員が集まってこれからの学会の運営などについて相談したことがあったが、日本臨床遺伝学会の存立を問われるという意識を持つようになってきた.今後の日本臨床遺伝学会のあり方を検討するために評議員会の中に将来計画委員会、拡大評議員会を発足させて、学会の組織作り、会則の変更、日本臨床遺伝学会遺伝相談医師カウンセラーの到達目標の作成などを検討することとなった.厚生労働省からは遺伝の専門家に関する資格統一の要請があり、1998年12月の古山班での会議で両学会は議論の末、互いの立場を認めてそれぞれの特長を生かしながら、遺伝医療に関する専門家を協力して養成していくことでの合意が得られた.このように、臨床遺伝専門医制度としての一本化が決定され、それの養成と認定には両学会からの委員会を発足させることとなった.二つの学会が行ってきた認定医制度の一本化には、古山班の存在が大きかった.
このような状況で、日本臨床遺伝学会の果たすべき役割について考慮するとき、日本人類遺伝学会とは異なる日本臨床遺伝学会の特徴をより明確にすべく、これまで学会活動の中心であった遺伝相談、遺伝カウンセリングを中心に日本遺伝カウンセリング学会と会名を変更したらどうかという提案が一部の評議員からあった.これまで臨床遺伝学会が歩んできた主要な課題としての遺伝カウンセリングを一般にもわかりやすくし、また人類遺伝学会との相違点を明確にするという立場からこの問題を検討することとなった.
臨時評議委員会が2000年1月にされ、その席上で学会の組織を改変してこれまでの幹事会に変わり理事会を設置する、職種別評議員定数性を定める、学会員への情報提供の迅速化を目的として委員会を設置する、学会名変更を検討する、などの問題が議論された.会名変更に対しては賛否両論あり、なかなか意見の一致は得られなかった.このような時期に学会員への情報提供を確実にするために、山中美智子(神奈川県立こども医療センター)が中心となり、正式に情報ネットワーク委員会が発足し、活動することとなった.
2000年3月に情報ネットワーク委員会からニュースレター第1号が発行され、会名変更に対する学会長青木の説明が載せられた.更にニュースレター第3号(2000年4月)でもこの問題を取り上げ、この年に開催される第24回日本臨床遺伝学会総会(大阪、学術集会長千代)における会名変更に関する情報提供を行った.ニュースレター10号(2000年9月)では学会名を「日本遺伝カウンセリング学会」に変更する案に対する補足説明が幹事会の吉岡章(奈良県立医科大学)と朝本明弘(石川県立中央病院)によって行われ、11号には様々な職種の方達からの意見を載せ、「臨床」という語を除くことにより医師以外の多くの分野からの学会への参加が期待できるということであった.
様々な経緯を経て日本臨床遺伝学会拡大将来計画委員会を2000年9月に開催し本学会を「日本遺伝カウンセリング学会」に会名変更するための作業の確認を行い、最終的に会員の投票によるものとすることとした.選挙管理委員会が発足して11月に投票用紙を発送し、12月9日に開票したが、その結果はニュースレター No.19に記載されているとおり、有効投票数315票、賛成266票(84%)であり、学会名を「日本遺伝カウンセリング学会」とすることが決定された.2001年5月、新しい学会名で第25回日本遺伝カウンセリング学会学術集会が会長佐藤孝道(聖路加国際病院)により盛大に開催され、これからの日本遺伝カウンセリング学会の発展が大いに期待された.
2年近くかけて、日本臨床遺伝学会の評議員が学会のあり方についてこれだけエネルギーを注いで議論したことははじめてであった.わが国の遺伝医療制度が大きく変動した時期に、またそれに伴って会名変更という大問題が浮上した時期に、責任者の立場で何とかこれをくぐり抜けて目的が一応達成されたことは大変うれしいことであった.度重なる会議に時間を割いて出席された学会評議員各位とともに、研究班の主任研究者である古山の努力もさることながら、このような問題に理解を示され、協力をいただい両学会の関係者に心より御礼申し上げる次第である.(文中、敬称は省略しました.)
参考資料1
参考資料2